「宇宙への兵器と核エネルギー配備に反対する地球ネット」(Global Network against Weapon and Nuclear Power in Space、以下GNと略称します)という組織は、世界各地の158のグループ、および個人のネットワーク組織です。調整者を米国人のブルース・ギャグナン、代表を英国人のデイブ・ウエッブが務めています。
ブルースの講演記録には日本語訳があります。ブルース・ギャクナン「宇宙的視野から核兵器廃絶の展望を考える」(藤岡 惇・田中利幸訳)『世界』2010年6月号、岩波書店、253-266頁、およびブルース・ギャクノン(藤岡 惇訳)「危険な宇宙レースの道を歩みだした日本」『世界』2005年7月号、岩波書店、226‐238ページを見ていただけると、ブルースの主張と人となりとがよく分かります。
他方デイブは、英国ヨークシャーのリーズ市立大学の理工学教授を退職し、いまは、英国最大の平和運動団体「核廃絶キャンペーン」の議長をしています。2007年8月には夫人のレスリーさんとともに来日し、アメリカン大学と立命館大学が共催してきた「広島・長崎を回る平和の旅」(国際平和交流セミナー)に参加するとともに、原水禁世界大会にも参加されています。詳細は、「日米交流で原爆を探究する旅 20年の歩み」28・144ページ(http://www.peaceful.biz/contents/7-8hiroshima.pdf)を参照ください。
GNの歴史をひも解きますと、1992年に宇宙軍拡を懸念するフロリダ、コロラドの市民組織が共同集会をもったことから、ゆるやかなネットワーク形成が始まったようです。以後、1997年にはドイツのダームシュタット、1998年には米国のコロラドスプリングス、1999年にはふたたびダームシュタット、2000年4月にはワシントンDC、 2001年には 英国のリーズ、2002年にはカリフォルニアのバークレー、2003年にはオーストラリアのメルボルン、2004年には米国のメーン州のポートランド、2006年6月には世界平和フォーラム開催にあわせてカナダのバンクーバー、2007年には三度目のダームシュタット(ドイツ) 、2008年には、米国の戦略軍司令部のあるネブラスカ州オマハ、2009年には初のアジアでの大会として韓国のソウル、2010年には国連でのNPT再検討会議にあわせて、ニューヨーク、2011年にはレイセオンの工場のある米国のマサチューセッツ州、2012年には、ハワイと韓国の済州島のカンジョン村、2013年には北極圏内に位置し、広大なロケット実験場(エスレーン)のあるスウェーデンのキルナ、2014年には米国のサンフランシスコの北のサンタ・バーバラで開かれてきました。そして23回目の年大会が、初の日本で開かれることになったのです。
日本在住者との関係を紹介しますと、1999年11月にオランダのハーグで開かれた「国際平和会議」が藤岡にとっての最初の出会いでした。この場で、GNのカール・グロスマン(ニューヨーク市立大学)が宇宙の軍事化・脱軍事化を掲げたセッションを開催。そのセッションに、日本から、梅林宏道(ピースデポ代表、当時)、大庭里美(プルトニウムアクション広島代表、アボリッション2000国際評議委員)、藤岡 惇(立命館大学)などが参加し、交流が始まりました。もっとも大庭さんたちは、プルトニウムを搭載した土星探査船カーッシーニ打ち上げ反対キャンペーンのあった1997年ころから接触があったようです。大庭さんは、大変積極的な反核平和の活動家で、『希望の種子(たね)』という月刊の手作り誌を出して、GNの文献を多数訳出したり、GNのポスター・CD作品(帰ってきたスターウォーズ2など)などを日本語に翻訳・刊行していただきましたし、平和資料協同組合(ピースデポ)の皆さん方にもその後、陰に陽に助けていただきました。
ブルースの講演記録には日本語訳があります。ブルース・ギャクナン「宇宙的視野から核兵器廃絶の展望を考える」(藤岡 惇・田中利幸訳)『世界』2010年6月号、岩波書店、253-266頁、およびブルース・ギャクノン(藤岡 惇訳)「危険な宇宙レースの道を歩みだした日本」『世界』2005年7月号、岩波書店、226‐238ページを見ていただけると、ブルースの主張と人となりとがよく分かります。
他方デイブは、英国ヨークシャーのリーズ市立大学の理工学教授を退職し、いまは、英国最大の平和運動団体「核廃絶キャンペーン」の議長をしています。2007年8月には夫人のレスリーさんとともに来日し、アメリカン大学と立命館大学が共催してきた「広島・長崎を回る平和の旅」(国際平和交流セミナー)に参加するとともに、原水禁世界大会にも参加されています。詳細は、「日米交流で原爆を探究する旅 20年の歩み」28・144ページ(http://www.peaceful.biz/contents/7-8hiroshima.pdf)を参照ください。
GNの歴史をひも解きますと、1992年に宇宙軍拡を懸念するフロリダ、コロラドの市民組織が共同集会をもったことから、ゆるやかなネットワーク形成が始まったようです。以後、1997年にはドイツのダームシュタット、1998年には米国のコロラドスプリングス、1999年にはふたたびダームシュタット、2000年4月にはワシントンDC、 2001年には 英国のリーズ、2002年にはカリフォルニアのバークレー、2003年にはオーストラリアのメルボルン、2004年には米国のメーン州のポートランド、2006年6月には世界平和フォーラム開催にあわせてカナダのバンクーバー、2007年には三度目のダームシュタット(ドイツ) 、2008年には、米国の戦略軍司令部のあるネブラスカ州オマハ、2009年には初のアジアでの大会として韓国のソウル、2010年には国連でのNPT再検討会議にあわせて、ニューヨーク、2011年にはレイセオンの工場のある米国のマサチューセッツ州、2012年には、ハワイと韓国の済州島のカンジョン村、2013年には北極圏内に位置し、広大なロケット実験場(エスレーン)のあるスウェーデンのキルナ、2014年には米国のサンフランシスコの北のサンタ・バーバラで開かれてきました。そして23回目の年大会が、初の日本で開かれることになったのです。
日本在住者との関係を紹介しますと、1999年11月にオランダのハーグで開かれた「国際平和会議」が藤岡にとっての最初の出会いでした。この場で、GNのカール・グロスマン(ニューヨーク市立大学)が宇宙の軍事化・脱軍事化を掲げたセッションを開催。そのセッションに、日本から、梅林宏道(ピースデポ代表、当時)、大庭里美(プルトニウムアクション広島代表、アボリッション2000国際評議委員)、藤岡 惇(立命館大学)などが参加し、交流が始まりました。もっとも大庭さんたちは、プルトニウムを搭載した土星探査船カーッシーニ打ち上げ反対キャンペーンのあった1997年ころから接触があったようです。大庭さんは、大変積極的な反核平和の活動家で、『希望の種子(たね)』という月刊の手作り誌を出して、GNの文献を多数訳出したり、GNのポスター・CD作品(帰ってきたスターウォーズ2など)などを日本語に翻訳・刊行していただきましたし、平和資料協同組合(ピースデポ)の皆さん方にもその後、陰に陽に助けていただきました。
1999年のハーグ集会は日本の自治体にも大きな反響を呼びました。この集会で世界の市民運動(NGO)の巨大な可能性に気づかれた伊藤長崎市長などの発案で2000年秋から長崎で「核兵器廃絶地球市民集会」が開かれるようになり、GNの活動家が日本に招かれるようになりました。
2000年の米国の首都のワシントン大会で、藤岡が大庭里美さんとともに、GNのボードメンバーになっていましたが、2000年11月17日―20日に長崎で開かれた「核兵器廃絶地球市民集会」のゲストとしてブルースが来日し、長崎集会の終了後に日本各地でブルースを招く「スピーキングツアー」を行うことができました。このあたりが、宇宙の脱軍事化やミサイル防衛への反対運動を展開してきた日本各地の平和運動家とGNとの出会いが深まった画期だったと思います。
ただし残念なことに、GNの活動を紹介する精力的な活動をされ、2002年のバークレイでのGN大会では「宇宙の平和賞」を受賞された大庭里美さんが、2005年2月に突然死去されます。日本の運動にとっての心棒が欠けてしまったわけで、悲しい思い出です。同年秋の恒例の「宇宙の脱軍事化めざす連帯行動」のポスターには、大庭さん追悼の文字が大きく刻まれ、彼女の存在の大きさを象徴していました。
GNの2009年4月のソウル大会はこれまでで最大規模の集まりとなり、日本からは18名がソウルに行きました。この年にGNの役員とし、藤岡、九州の佐藤さんのほか、山口響(ピープルズプラン研究所)・杉原浩司さんが国際諮問委員となりました。
2009年の8月1日の広島では広島市・朝日新聞社主催の「国際平和シンポジウム」、8月7日の長崎では「平和市長会議」関連行事が行われました。これに招請されて再びブルースが来日しましたので、この機会を活かして、日本各地で有志が講演会を企画しました。この一連の交流行事は、「ブルース・ギャグノン・スピーキングツァー(夜空を見て、宇宙と地上の平和を考える夏)」と呼ばれ、GNのことが日本人の間で知られるようになる、今一つの画期となりました。
2000年の米国の首都のワシントン大会で、藤岡が大庭里美さんとともに、GNのボードメンバーになっていましたが、2000年11月17日―20日に長崎で開かれた「核兵器廃絶地球市民集会」のゲストとしてブルースが来日し、長崎集会の終了後に日本各地でブルースを招く「スピーキングツアー」を行うことができました。このあたりが、宇宙の脱軍事化やミサイル防衛への反対運動を展開してきた日本各地の平和運動家とGNとの出会いが深まった画期だったと思います。
ただし残念なことに、GNの活動を紹介する精力的な活動をされ、2002年のバークレイでのGN大会では「宇宙の平和賞」を受賞された大庭里美さんが、2005年2月に突然死去されます。日本の運動にとっての心棒が欠けてしまったわけで、悲しい思い出です。同年秋の恒例の「宇宙の脱軍事化めざす連帯行動」のポスターには、大庭さん追悼の文字が大きく刻まれ、彼女の存在の大きさを象徴していました。
GNの2009年4月のソウル大会はこれまでで最大規模の集まりとなり、日本からは18名がソウルに行きました。この年にGNの役員とし、藤岡、九州の佐藤さんのほか、山口響(ピープルズプラン研究所)・杉原浩司さんが国際諮問委員となりました。
2009年の8月1日の広島では広島市・朝日新聞社主催の「国際平和シンポジウム」、8月7日の長崎では「平和市長会議」関連行事が行われました。これに招請されて再びブルースが来日しましたので、この機会を活かして、日本各地で有志が講演会を企画しました。この一連の交流行事は、「ブルース・ギャグノン・スピーキングツァー(夜空を見て、宇宙と地上の平和を考える夏)」と呼ばれ、GNのことが日本人の間で知られるようになる、今一つの画期となりました。
2011年6月17日―19日にノース・アンドーバーのメリマック大学で開かれたGNの年次大会には、高草木博さん(原水協代表理事)やフォーク歌手の北川テツさんなど6名の日本人が参加し、北川さんは音楽行事で中心的な役割を果たされました。
2012年大会2月、GNの年次大会が再び韓国で開かれました。しかも開催地は、海軍基地建設への反対運動が高揚していた済州島のカンジョン村です。カンジョン村を「いのちと平和の村」に、韓国済州島を「世界平和の島」という願いを込めた大会となり、日本からは10名以上が参加しました。
2013年6月に、広大なロケット実験場(エスレーン)のあるスウェーデンのキルナで開かれた年次大会に参加した日本人は藤岡だけでしたが、地球の北極と南極上空を回る「天頂衛星」あるいは「準天頂衛星」軌道が戦略的にいかに重要な役割を果たしているのか、北極圏の掌握が宇宙覇権の帰趨を決める役割を果たすに至っているかを印象づける大会となりました。
2012年大会2月、GNの年次大会が再び韓国で開かれました。しかも開催地は、海軍基地建設への反対運動が高揚していた済州島のカンジョン村です。カンジョン村を「いのちと平和の村」に、韓国済州島を「世界平和の島」という願いを込めた大会となり、日本からは10名以上が参加しました。
2013年6月に、広大なロケット実験場(エスレーン)のあるスウェーデンのキルナで開かれた年次大会に参加した日本人は藤岡だけでしたが、地球の北極と南極上空を回る「天頂衛星」あるいは「準天頂衛星」軌道が戦略的にいかに重要な役割を果たしているのか、北極圏の掌握が宇宙覇権の帰趨を決める役割を果たすに至っているかを印象づける大会となりました。
2014年3月のサンタ・バーバラの「マリアの家」で開かれたGNの年次大会では、藤岡のほかに京都平和委員会の戸田昌基理事長が参加され、京都府下の経ケ岬において計画中のXバンドレーダー基地の開設反対運動の報告をされました。この集まりで、15年度大会の日本(京都)招致・開催が決まった訳です。
GNの23年間の歴史は映像化され、15分で見ることができます。デイブが作ったすばらしい作品です。
GNの23年間の歴史は映像化され、15分で見ることができます。デイブが作ったすばらしい作品です。
(宇宙と平和・国際セミナー実行委員長 立命館大学特任教授)
藤岡 惇